昭和41年11月6日 朝の御理解        (信太郎)



 (小鳥達が?)、もうボチボチ寒くなる。さっそく、その(スキー?)の手入れなんかをして、いわば、寒い日を待ち焦がれております。夏でもいわばその炎天下に水泳をする事を楽しみに、これは夏でなからなければ出来ない楽しみというものを、若い人達は持っております。冬でも楽しい。夏もまた楽しいという。暑かっても、寒かっても、楽しいという。また、暑い夏がやってくる。また、嫌な冬がやって来るというような受け方ではなくて。そこに、スキーならスキー、水泳なら水泳というような事に、あるとすりゃ、楽しゅうなって来る。私は、まあ、私どもの人生は、そういうように、どのような事が、暑い事があろうが、寒い事があろうが、それに楽しく処して行けれる道。それを楽しく(     )行けれる道。それは、私は信心以外にはないです。いや、その信心も、ただ拝む、おかげを頂くというだけの信心では、私は頂けない。やはり、その真の信心というものが、必要だと思うのですね。その真の信心を目指さなければです、私はあの、本当な、暑い事も、また寒い事も楽しいんだ、面白いんだと、いや待ち遠しいんだという事にはなって来ないと思うんですね。もう、出来るだけ寒い所から、出きるだけ、その暑い所から避けよう、避けようというような事では、出来ません。おかげを頂く事だけが、神様、信心のように思うておるような信心からです、その信心(捨てられません?)。どうでしょうか皆さん。信心の焦点というのが、そういう所に置かれてはならぬ。金光様の信心を頂いておるから、必ずしも真の信心とは言えない。ね。言うならば、本当に神様の願いと言うか、神の思いと言うか。いわゆる、真実、神愛を悟らせてもろうて。ね、真の信心を分からせて頂こうとする願いで、元にだけ、私は、夏もまた有り難いんだ、冬もまた在り難いんだという事が言えると思う。昨日、あの本部に行っております末永さんから手紙が来ておる。真剣に、もちろんお道の教師を志すのでありますから、もう、おかげとか、(それこそ今言った?)、もう本当に、真の信心を目指して、いわゆる様子がこれには感じられます。読んで見ましょう。拝啓、おかげ頂きまして有り難うございます。大変御無礼ばかりして、相すいません。本日、朝参りをさせて頂きまして、気付かせて頂きました事は、教師は教祖に神習い、立教神殿を対してうんぬんとございますが、私どもは、教祖様に神習わせて頂く以前から、神様の方から働きかけがあって、神習う方があるという事でございます。椛目では、神愛という事を教えて下さっておりますが、改めて、その神愛という事を見なおさせて頂きます。教祖様42歳の御大患の折、真実、精神、神仏に身を任せる。凡夫相分からず(   )。それで済んだとは思いません。例えば、これは、(ひとつかっこして、かっこで?)、真実小心、神仏に身を任せる、神仏に身を任せる、凡夫で相分かりません。凡夫で相分からず。それで、済んだとは思いません。ね、(         )。その生かされ方から、初めて神様との交流が始まり、犬の年はよい、ここへ這い這い、這いながらでも出て来いと、云々と。それから、あいよかけよの働きが始まり、(相性できれんの?)立教神殿までを(せつ?)あらず、かくかくの生活の御内容であられた事でございますが、実は教祖様の通られた道と申しましょうか、一連の事が、実は自分にも、椛目を通して、現在していたという事であります。そして、まさしく椛目の師匠のその道を辿って行かれたという事を、改めて思い知らされた次第でございます。生きて行く事の絶対無常と申しましょうか、人間性の中から、この道の働きと申しましょうか。深奥、奥深くに触れて、触れる思いをありました。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであった。そのものが神愛の現れであったという事を、改めて自覚させて頂いております。神愛そのものには、(   )と申しましょうか。苦しみが自分の命ある限り、残るような気がしますが、今の私には、それに触れる度々に相すいませんと思う心になっておりますと、こんな事が書いとる。これは、今日は私が皆さんに申しました内容の事が、お道風に、理論的につかんでおる。同時にそれを、椛目的に解釈して、椛目でそれを神愛と言うと、こう言うのです。ね。または、あれもおかげであった、これもおかげであったということ。神愛が分かるところから、あれもおかげであった、これもおかげであった。あれという事は、過去のこと。ね。ある時に、ああいう事がなかったら、といったようなものではなくて、あれがおかげなんだ、過去の事もおかげなんだ。ここに現在、現実自分が通うておる。その事もおかげなんだ。それは、全部神様の愛情の現れなんだ、と椛目では説いてありますというような事。大変、これ難しい事が書いてございますね。椛目の師匠もここを通られたんだと。教祖の神様がそこんところを分からせ、触られるまでに通られたようなところを、椛目の師匠は通っている。同時に、また自分も通っておる事に気付かせて頂いたといったような事が、書いてございましたですね。どうぞ一つ皆さん、本当に、本当にそうなんですから。物の道理というものが、考えてから(    )せん。ね。寒いから嫌々と言ってませんもん、若い者は。それこそ、もうスキーの手入れをしております。ね。冬もまた寒い。雪も降りゃ、また楽しいのです。それは、スキーというものを体得したからなんです。ね。スキーを知らなかったら、やはり嫌な冬でしょう。冷えたら冬が嫌だという事になりますけれども。スキーを体得するところに、それは、雪の降る冬が待ち遠しいのです。あんな炎天の暑い、また暑い思いをせんならん。また夏が近づいて来たというような事ではなくてです。水泳をする若者達がです、またその夏を待ち焦がれるような、そのものがございますように。ね、私どもが、(それの術?)を分からせて頂くのが信心なんです。そういう信心に、やはり私どもが同居しなければいけません。ただ、お取次ぎを頂いてお願いをすると言うて、お取次ぎを頂いてです、お互いが信心を頂かにゃいけません。ね。神様、私どもそうやって向かわせて頂いてますとですね、もう、不思議に神様がですね、そこんところを(補うて?)下さるんです。神様の働きっちゃ恐れ入るなと。ね。本当に神様の働きと思わにゃおられない、というような事がです、起きて、その、頂ける、体験出来るんです。ですから、それを逃さず、それをつかんでそれを(背負うて?)行かなきゃいけんのです。ね。私どもが、人間のこれは、もう14~15年も前だったでしょうかね。あの、千足の、(   )か何かて薬局がありましたね。それは、古賀さんて有名なお医者さんがあられましたですね。その方が、あの、金光様に白癬を持って行ってですね。金光様、家の宝にしたいと思いますと。どうぞ一つ、これ何か良いようにお書き下げを下さいと言うてから、そのお願いなさったんですね。そしたら金光様が、その扇子の真中に、もう小さい小さい字でですね、真の信心と書いて。先生、見て下さい。これは、もう私の宝でございますと言うて、私に、私がお話で参りました時に、出して見せられるんですね。私、真の信心て、あんまり漠然としとるもんですから、どういう事だろうか。それは、金光様の信心が真の信心だという風に教えられて来たけれど、はたして金光様の信心だけが真の信心で、他の信心は真の信心じゃないか。そんなこっじゃない。金光様の信心を頂いてあっても、真の信心から離れておる信心が沢山ある。私はそういう事を、扇子を開きながら、金光様、真の信心とはどういうような事でございましょうかと言うて、(お届け?)させて頂いたら、三代金光様のお声でですね、もう本当に、そのままのお声でですね、頂きます事があの、真の信心とは安心のおかげを受ける事でありますと仰った。ね。もう、極限ですよ、これはね。素晴らしい事です。ですから、それは、んなら、金光様の御信心だけの事じゃないて。もし、〇〇教、〇〇様を拝んでおってもです、その人がもし本当に安心実名の心というものを開いたらです、それが真の信心なんです。どんなに素晴らしい教えを持っておる、金光教の信心しておるから、私は真の信心を頂いておりますとは言えないということ。そこで、その安心のおかげを目指しての信心なんだ。それが、今、末永さんが行き詰まって分からなかったところを、今朝の朝の、朝の御祈念に参拝させて頂きよくと、心の中に感じた事が、只今読みました、まあ、お道の信心、信仰的な表現をしておりますですね。そして、そこが椛目では神愛と説いてあると、こう悟っております。ね。寒い事も神愛なのだと。暑い事もやはり、神様が氏子可愛いという願いの現れなのだ。ここが分かった時に、夏もまた楽しいのであり、冬もまた有り難いのであるという事がわかる。いわゆる、あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになると、真の信心じゃと仰る。ね、ですから、信心とはここを目指さなければいけないという事が分かるでしょうが。ね。私どもがですね、お参りをしておかげを頂くというような事がです、今そこに、久留米からお参りになっておられる方があります。もう、今日で三日続けて参られんですけれど。私はね、お取次ぎをさせて頂きましたら、御心眼に、見えられたらすぐ頂く事がです、中という事を頂く、中。中心の中。それを、もう崩した上にも崩した、いわば、あの叢書でこう中と頂く。ね。次に、どういう事だろうかと思うたら、あの、行書で頂き、楷書で頂くんですね。はあ、これは何か、中、中。誰々との仲という事で、仲が崩れておるんだなと、私は思うたんです。ね。もう、崩しに崩してある。もう、これ以上は崩されないというぐらいに、中という字が崩してあるんです。だから、これは仲が崩れておるんだな。それから、しばらくお取次ぎをさせて頂いて、御理解を聞いて頂いて。そしたら先生、実はその仲の事でございますと言うて、その、ある(現地でお店をなさっておられる?)、そのある、(   )その方との仲のことでお願いがございました。で、私そん時言いました。これは、これだけじゃないです。御理解というのは、もう非常に深いですからね。まあ、今からボチボチ分かって来ますよち、そう言うとったんですよね。そしたら、昨日また、夫婦で参って見えられてから、まあ、先生、もう本当に恐れ入りました。帰らせて頂いたら、ある人が、もうこれは、御兄弟に当たられる方の娘さんだと言うて、もうその、ある馬鹿な事でもう深刻な、もうそれこそ深刻な願いで、叔父さんの所に御相談に見えたとこなんだと。(       )今度はまた、御兄弟じゃない、(         )いや、娘(      )ね。見えておられる。やっぱり、その馬鹿な問題で、実にこんがらがった状態な事をですね、お父さんどうしようかという事が、相談に見えた。深いですね、神様のこの働きというか。そこで、まあ、今日、椛目にこうやっておかげを頂いた。先生が、仲という事を、仲が崩れておると仰ったが、自分達の事だけじゃなかった、あんた達の事でもあった。または、あんた達の事でもあったんだと。そこで、私どもの信心をですね、先ず、はじめからぴちっとした楷書のような信心は出けんから、まず、行書の信心をさせてもらい、楷書の信心をさせてもろうて、きちっとしたおかげを頂こうじゃないかというような意味で、昨日はその事のお願いに見えました。これなんかは、神様が、ここに末永が書いておりますように。なら、神様が先に働きかけて下さる。ね。(       )しかもそれに、その、神様のおかげと思わにゃおられないような事が、こうやって起きて来るという事実をですね、私どもは把握したら、ただ、そこんところをおかげにしようというだけではなくて、そのこと事態、その事の中からです、いわゆる、真の信心を目指さなければいけないということ。ね。んなら、その真の信心とはどういう事かと言うと、結論すると、どのような場合でも安心しておれれる境地を開いて行く事だということ。ね。本当に、まあ、ああいう事があったが、おかげで自分が今のこんな難儀をしておるといったような時には、まだ本当な信心を頂いとらんとです。いわゆる、あれもおかげであったんだ。例えて言うならば、私どもが、ね、終戦、そして引き揚げと・・・(テープ切れ)